【長野県】Webで諸説ある城 信濃・楽巌寺城跡【小諸市】

楽巌寺城跡の「血の池」と呼ばれる池史跡
「血の池」と呼ばれる池がある。戦いの時に文字通り血の池になったのか

今回紹介するのは名前の響きがカッコいい「楽巌寺城(がくがんじじょう or らくがんじじょう)」。別名を布引城(ぬのびきじょう)とするWeb資料もあれば、布引城と楽巌寺城は別物、または隣接する堀之内城が布引城であり、楽巌寺城は他の城跡とは独立したものとして取り上げられていたりと、ネットで検索する限りでは数々の見方や解釈があって混乱する。

城の名前の読み方も「がくがんじ」「らくがんじ」と分かれる。また漢字も「楽厳寺」「楽巌寺」「楽岩寺」と分かれるが、漢字については「楽巌寺」の方が「いかにも感」がある。


諸説あふれる楽巌寺城

この城跡は諸説あふれる城跡です。楽岩寺城とも書かれていたりする。

近隣は別荘地帯となっており、おそらく私有地であるため、特に解説の板などはありません!!(私有地なのでご配慮願います)

また、発掘調査も特にされていないようで、Web検索すると解釈や読み方、漢字が違ったりする。
ただ一つ、どうやらここに城があったらしい、というのは確実で、土塁や巨大な堀切が見どころ。

楽厳寺城跡に残る石碑

楽厳寺城跡に残る石碑。画像では分かりづらいが、「元禄」という文字だけ読み取れた


1688年から1704年までの期間が元禄(げんろく)らしいので、江戸時代に建てられた?石碑があります。多分馬頭観音??なんじゃないかなと思います。
書かれている文言は詳しい方々に任せるとして、城跡の周囲の雰囲気としては、5月の新緑が生い茂っており、やや暗い感想をいだきます。

楽厳寺城の縄張だったであろう盛り土

楽厳寺城の縄張だったであろう土塁、道路によって削られている

この途中で寸断されてしまっている土塁があるのが特徴的で印象深いです。

楽巌寺城跡の「血の池」と呼ばれる池

「血の池」と呼ばれる池がある。戦いの時に文字通り血の池になったのか

楽巌寺城跡の東端より、布引観音方面を見る

楽巌寺城跡の東端より、布引観音方面を見る、急斜面でほぼ崖

楽巌寺城跡、道沿いに続く土塁

楽巌寺城跡、道沿いに続く土塁

この道をずっと降りていくと釈尊寺の布引観音が見られる。布引観音からの最寄りなの城跡なので、とりあえずここが布引城ってことでいいのか?
それとも堀之内城とこの楽巌寺城と他近在の城跡群をまとめて布引城なのかもしれない。(この辺ものすごく城跡が多いです、河岸段丘の上だから攻めにくいだろうっていうのもあったのかも)

千曲川の河岸段丘の上にあるので、北側から攻めるには難しそう。攻めるなら、南側の台地から、と思うが溜池が多い。昔はなかったんだろうか。
この城は武田晴信(後の武田信玄)によって攻められた際に陥落。その後、隣接する堀之内城とともに武田氏による改修を受けたとするWeb資料も散見される。


城の歴史

この城は、天文年間(1532~1555年)に楽厳寺 雅方(らくがんじ まさかた)によって築かれたと云われている。楽厳寺氏はもともと布引山釈尊寺の末寺、楽厳寺の住僧であったが、武勇に長じ、この付近の豪族であった望月信雅の旗本となった、とされる。
天文一七年(1548年)八月武田晴信(後の武田信玄)により楽巌寺雅方の居城、楽巌寺城は隣接する堀之内城と共に陥落・・・。

楽巌寺城、堀切

土塀を寸断している道路を行くと楽巌寺城の深い堀切が出てくる。

主人である望月氏は武田氏の軍門に降ったが、楽巌寺雅方は堀ノ内城主・布下雅朝とともに村上義清を頼って落ちのびる。

天文22年(1553年)、村上義清が武田信玄に敗れて越後へ落ちると楽巌寺雅方は武田信玄に降り、永禄10年(1567年)には武田氏に忠誠を誓う起請文を生島足島神社に捧げている。

参考にさせていただいた資料

城主

楽巌寺雅方(がくがんじ まさかた)

この人はもともとは僧侶だったものの、僧兵としての武勇に優れたために、望月氏の旗本?として取り立てられ、この城を築いたとされている。
天文17年(1548年)2月14日に甲斐武田氏と信濃小県郡の村上義清との間で行われた上田原の戦いで村上方の先鋒を務めたという、こんな記載がWikipediaには載っている。

上田原の戦いは、かの有名な武田信玄が初めて敗北した戦いで、その戦いの中でも僧兵、望月氏の家臣として活躍したのであろうなぁ、と思う。最後には望月氏の斡旋もあったのか分からないけど、甲斐の武田家の軍門に降ったらしい。

その後、武田氏に従属し、弘治4年(1558年)3月7日に望月信雅が釈尊寺(長野県小諸市)を再興した際の棟札に「宗栄楽厳寺」の名が見られる。

Wikipediaより

村上義清といえば、有名な武田信玄を二回も撃退するという強者で、最後の最後まで武田家に対して抵抗する信濃の国人衆である。
なので僕はかなり好意的にとらえている戦国武将の一人だ。楽巌寺雅方さんも一応Wikipediaに載っている。

城郭図(余湖くんのホームページより)

楽岩寺(がくがんじ)城(小諸市大久保)

楽岩寺(がくがんじ)城の鳥瞰図(余湖くんのホームページより)

例によって【長野県】佐久・上田・小県を一望できる城 信濃・外山城跡【東御市】の記事でも参考記事とさせていただいた、鳥瞰図。実に素晴らしいので、また引用させていただきました。

これによって「血の池」などもわかりました。

かなりガチの歴史考察家と思われる余湖(よご)様、解説と考察がすごい。城郭図もご自身で描かれている様子。せっかくなので引用させていただきました。
(問題ありましたらご連絡ください)

地図

この城跡の下200mには釈尊寺があり、この地域では絶景スポットとして有名である布引観音が見れます。
超神聖なパワースポット感があり、この地区の観光をするならここを布引観音は見ておいたほうがいいです。
今度行ってみたブログを書いてみたいと思います。

釈尊寺・布引観音

断崖にうがった釈尊寺・布引観音がすぐ近くにあります

楽巌寺城跡は、もっと写真撮っておけばよかったと後悔・・・

参考資料

公式に発掘調査したという資料もないため、かなり諸説うずまいている。

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