【記憶の】祖父から聞いた名古屋大空襲【雑記】

【記憶の】祖父から聞いた名古屋大空襲【雑記】

祖父が亡くなって、もう10年になる

母方の祖父が私は大好きで、毎年夏になると祖父宅に滞在し、一緒に畑仕事をしたものだ。
ただ、亡くなる2年前からは肺ガンと、恐れていた認知症が出始めた。母は苦労した。

認知症というものは恐ろしいもので最近の記憶が覚えられないのだ。そして、何かが頭の中でリンクした時に言動に現れる。いわゆる「せん妄」である。


長野県岡谷市に住んでいた私の祖父は、その昔から共産党党員であった。若い頃は喧嘩も相当していたようだ。特にひどかったのはK明党の支持母体である「S価学会」である。
祖父は注射をされようとしたときに、何かの記憶にリンクしたのか、「貴様ら!学会のモノか!!」と叫び、暴れまわったようだ。それを見た母は相当パニックになったという。

でも、祖父は、少なくとも私の前ではそのような素振りを見せなかった。顔立ちはイケメンだった。「岡谷のアラン・ドロン」と昔は言われていたらしい。本人はさして気にもとめなかった。
僕は7歳の時、岡谷市に住んだ。祖父が大好きだった。祖父はキノコも作っていたし、借りている畑で大根を作っていた。時々祖父とともに畑に作業をしに行った。

8歳になると、父の仕事の関係から山梨県に居を移すことになるのだが、山梨のイジメは壮絶だった。家族ぐるみでやる。陰湿で、教員は見てみぬふり。僕は完全に山梨嫌いに成長していった。常に「岡谷に帰りたい」が口癖だった。

岡谷に帰れば、安タバコの匂いがする祖父に会える、そして祖父はいつも言葉少なげに、僕と話してくれた。僕はいつか大人になったら祖父と並んでタバコとお茶を嗜む、そんな未来を描いていた。だが、そうなる前に祖父は亡くなってしまった・・・。

祖父は名古屋空襲に遭った

名古屋大空襲後の名古屋の様子

僕は戦争の話を聞くのが好きだった。好きなのもあるが、少しでも祖父が体験したものを感じたいと思っていた。祖父はあまりしゃべらないが、「B-29に体当たりした戦闘機を見た」「日本の高射砲が、撃って、そのまま街に落ちてきた」と徐々に語り始めた。

「おじいちゃんは、名古屋でなんの仕事をしていたの」
「戦闘機のタイヤを作っていた」

この事から、愛知航空機の工場で働いていたのではないかと推測される。

そして、名古屋の空襲の時の話も聞いてみた。

祖父は、少しの沈黙のあとにぽつりぽつり、語り始めた。

「川に行っても、黒焦げの死体がたくさんあった」
「味方の高射砲隊が、高射砲を撃つんだけど、B29には当たらなくて、そのまま街に落ちてきた、そこで爆発した」
「味方の戦闘機が、体当たりしてB29を撃ち落とそうとしていた」

祖父はそれを見て涙が出たそうだ。

いつの空襲か、分からないが、すくなくとも名古屋は3回大規模な空襲を受けていて、軍需工場を含めた爆撃は1945年の3月あたりが有力となる。この時期に体当たりでB29を撃墜しようとした部隊が名古屋で戦闘したのか、高射砲隊の反撃は本当にあったのか、僕には分からない。調べればわかるんだろうけど、今回は、とりあえず、祖父から聞いた話をWebに残すべく筆を取った。


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