【横浜市】未発掘の近所の城跡 大曽根城跡【港北区】

横浜市港北区に引っ越してきて3ヶ月。久々に城跡がめぐりたくなり、GoogleMapで「城跡」を検索。
そしたらなんと徒歩20分圏内に「大曽根城」という城跡があるではないか。これは行きたい!と思い本日攻城してまいりました。
大曽根城は、近くの大きな城跡、小机城の支城として築かれ、笠原能登守康勝(かさはらのとのかみやすかつ)の弟義為(よしため)が城主として守っていた、とWebの文献にはあります。


小机城の支城として機能した大曽根城

東急東横線大倉山駅近くの大倉山公園付近が城跡推定値。
別名大曽根砦ともいわれ、所在した場所は未確定だが、龍松院の裏山付近にあったのではないかと考えられている。
発掘調査はされていないため、遺構は定かではない。

しかし、Webの文献によればどうやらここに山城か砦があったらしい、とされている。
大倉山公園近くには龍松院というお寺があり、そこは笠原能登守康勝(かさはらのとのかみやすかつ)が開基した、とある。

『新編武蔵風土記稿』によれば、小机城代の笠原能登守康勝の弟平六義為が明応9年(1500年)に築き、義為は城推定地北側の谷戸に住居を構えたとされ、住居を構えた谷戸は後に殿谷と呼称されるようになったと記されている。

– GoogleMap口コミ 「大曽根城(殿谷の塁蹟)」 m,aooさんより

後述の地図を見れば分かるように、北側は鶴見川が流れ、東側には綱島街道があり、街道沿いの防衛の要衝であったことが推測される。

実際の攻城!!

GoogleMapに導かれるままに城跡の推定値にたどり着くと、「保全林のため通行はご遠慮ください」との立て札がある。目的は通行ではなく調査だ!と割り切り、登山開始。

大曽根城跡の攻城

もちろん登山道などはなく、獣道があったのでそれに沿って進む。全く整備されていないので、急斜面を駆け上がっていく。
こんなものは慣れっこなのである。むしろ信濃武士の血が騒ぐ。

信濃武士のくだり

もっと険しかった城跡


大曽根城跡にたどり着くと
さて実際に頂上に上り詰めると、、、

大曽根城跡推定値より

笹や木々が生い茂っている平場に出る。残念ながら木が生い茂っていたため、城下を一望する事叶わず。
しかし、ここからであれば確かに北方面の鶴見川方向に睨みが効く。北方で変事があればすぐに主城・小机城へと狼煙(のろし)をあげられただろう。

茂みを切り分けていくと、普通に整備された道に出た。フェンスに囲まれた整備道だったので、
もしかするとガチで立ち入り禁止だったのかもしれない((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

(怒られたらこの記事は削除or編集します)

大曽根城跡、盛土か?

↑ちなみにフェンス外の部分に人為的に盛り土されたような形跡があったため、もしかするとここが狼煙台の遺構なのかもしれない。
正式な調査が待たれる。

北方の「太尾みはらしの丘公園」からの方が正攻法ルートだった。電信鉄塔があるので場所としてはわかりやすい。

龍松院

その後、太尾みはらしの丘公園から下山し、鶴見川沿いで野草を探してから龍正院を訪れた。

龍松院の石碑

石碑によれば、

文殊堂智恵殿には、小机城主笠原能登守康勝公が陣中常に胸に掛け奮戦せる、不動尊像(文安三年一四四六年作)と主君、北条早雲公により拝領の文殊菩薩像を霊感により合祀して堂宇を建立した。
慶安三年(一六四三年)徳川三代将軍家光公は此の由来を聞し召され文珠堂領として九石余の御朱印を賜り代々将軍家より下賜さる。
爾来、出世文珠、怪我除け不動と近郷の者より信仰を集めた。
是れ龍松院の起原なり。

とある。

北条早雲の家臣であった笠原康勝と早雲によって、龍松院は始まった、とされている。その後、江戸幕府三代将軍家光がその伝説を聞いて、由緒正しきお寺として認められていったようだ。

龍松院

訪れたのが平日の昼間だったのもあり、門は閉められていて中を覗い知ることはできなかった。


横浜市は未発掘の城跡がたくさん

横浜市はなぜか戦国時代の史跡の発掘調査を積極的にやろうとはしない、ということが他の城好きの一致した意見である。
学生時代にも江田城、川和城、佐江戸城なども訪れたが、宅地整備されてしまっていたり、私有地だったりして発掘調査が行われていないのが現状。

将来、ぜひこういった戦国期の城跡の発掘調査がなされる事を願ってやまない。きっと謎の多い後北条家の城跡群に関して素晴らしい発掘物があるに違いないのだ。

城主

  • 笠原氏
    • 笠原義為(よしため)
    • 笠原能登守康勝(かさはらのとのかみやすかつ)

などが考えられる

地図

参考資料

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